私の日常は「声」から始まる。
目を覚ました瞬間に漏れる声。まだ寝ていたいと頭で呟く声。「んー」と隣から聞こえる声。自分の声も誰かの声も朝は柔らかく響く。だからだろうか、アラーム音よりも声で起こされた方が起きられるのは。
実家で暮らしていた頃、私を起こすのは母だった。目覚ましといえばスマートフォンのアラームではなく、目覚まし時計。優しい音楽ではなく「ピピピピピ……」と段々大きくなる電子音。頭の近くで鳴れば、早く止めたくて目を覚まさざるを得ない、そういうものだった。
そう、そういうもののはずなのだ。けれど私は目覚まし時計ではちっとも起きられない子どもだった。一番近くで寝ているのに。夜寝る前は張り切って時間を合わせるのに。朝に止めるのは私ではなく、耐えきれなくなった家族で。私自身が目覚まし時計で起きられたのは、数えるほどしかなかった。
「――ちゃん」
私の名前を呼ぶ母の声は、決して大きくはない。目覚まし時計の音の方が大きい。それなのにどうしてか、私は母の声で目を覚ます。先に鳴っていた目覚まし時計ではちっとも反応できなかったのに。母の声だとちゃんと瞼は上がるのだ。
母と離れて起きなくてはならないときはもちろんあって、旅行や合宿のときは目覚まし時計に頼る。そのときはちゃんと時間通り、もしくはそれよりも早く起きる。そう、やればできるのだ。それなのに、実家ではできない。リセットされるかのように、目覚まし時計を響かせ、母の声で起きる。そういう毎日だった。
そして今は実家を出て、夫と暮らしている。今の私はスマートフォンのアラームをかける。それで目覚めることももちろんある。けれど、それよりも夫の「声」が一番起きられる。一番目覚めがいい。
「――さん」
アラーム音のように唐突に夢を切ってしまうのでも、現実に放り出されるのでもない。夢と現実をちゃんと繋いで、手を引いてくれる。一日の始まりはここで、昨日を終えたところもここで、その間を埋める夢も全部ここにあるのだと、繋がっていることを教えてくれる。日常は私がいる場所から始まるけれど、それは同時に私が居場所と感じられる場所から始まるという意味でもある。
居場所を感じられるからこそ、私は私でいられるのだろう。
私自身を始めるための、もうひとつの「声」を感じることができるのだろう。
小説を書くとき、私はいつも声を聞く。誰かの心の声を受信して、それを文字に起こす。それは同じ世界の誰かだったり、とても遠い世界の誰かだったりする。決して会うことはない誰かが発する声を、物語にして紡ぐ。誰かに宛てたものではない、心の声。それを捉え、形にすることは、その誰かの居場所を作ることであり、書きたい私の居場所を作ることであり――日常が生まれる場所を作ることでもある。
小説に音はないけれど。文字しかないけれど。誰かに届いたとき、それはきっと「声」になる。話すことも、会うこともないかもしれない。それでも声が届いた、その場所に誰かの日常はある。夢と現実を繋いでくれる声のように。目覚めが優しくあるように。私の物語も誰かの「声」でありたい。
居場所は自分で作るものかもしれない。日常は自分で送るものかもしれない。けれどひとりである必要はないはずで、そばにはいなくても、遠い遠い誰かの声でしかなくても、寄り添えるものはきっとあると思う。
「――ちゃん」「――さん」
母や夫が私の名前を呼ぶように。その場所に、私の日常があるように。
私の「声」で始まる日常が、読んでくれたひとの居場所となることを願って、これからも書き続けていきたい。
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