「日常」とは、不穏と平穏をかきまぜて、その上澄みをすくったものだと最近思う。
平穏だけが続くものでもないし、慣れれば不穏も日常になる。
2023年の年末、突然病気を宣告された。「指定難病」というやつである。
持病のアレルギーがいっこうに治らないなあと思いながら大学病院に行ったら、なかなかの急展開だった。といっても病状はたいそうなものではなく、痛いとかしんどいとかいうわけでもない。ただ、全身がかゆいのもどうやらこの病気が原因らしい。
今の状態は「血液の数値を見る限り絶対に病気なんだけど、まだ大きな症状が出ていない感じ」とのことで。「未病」なんて言葉、養命酒のCM以外で初めて聞いた。ハロー未病、サヨナラ健康。先生は「このまま一生を終える人もいますが、悪化する人もいます」と言う。原因不明なこの病気、進行させないためには神に祈るしかないらしい。
アーメン。
ところで私の中の大学病院の先生といえば「白い巨塔」の財前五郎で、「冷酷で頑固」みたいな人を勝手ながら想像していた(失礼)。が、主治医の先生はこの長年のイメージからかけ離れている。処方箋のハンコを逆さに押しちゃって平謝りしたり、毎回自作のちっさい裏紙メモパッドに絵を描きながら丁寧に説明したりしてくれる。この絵が絶妙に汚くて、私の笑いのツボを突いてくる。この前は皮膚の細胞組織を描いてくれたのだが、喋りながら線と丸を乱雑に重ねていくので最終的にピカソもびっくりの芸術作品に仕上がった。おもしろすぎて、思わず「もらって帰っていいですか?!」と食い気味に聞いてしまった。対する先生も「え、これをですか?!」と言った。自覚はあるらしい。「えーと、ここが脂肪で、汗腺で……」と、丸と線の間にあまり読めない字で言葉を書き加えてくれた。好きだ。額に入れて飾りたい。
重めの宣告に反する先生の軽快な言動で、いつも診察中の感情はアップダウンが激しい。お茶目な先生に毎度励まされている。
最初にいくつか検査をして、その結果が出るまでの数週間は、病気になったらもう「日常」は戻ってこないのだと落ち込んだりもした。でも、この話をある友達にしたら、「実はうちの家族も難病なんだよね。でも全然元気だよ」と言われ。
私が「非日常」だと思っているものを「日常」と受け入れて強く生きている人は大勢いるんだという気づきを得た。
これからどうなるかはわからない。今こうやって文章を書いていること自体が数年後には「あのころは幸せだった」となる可能性もある。
だからこそ、不穏に平穏をゆっくり溶かすように、つらいことは限りなく薄めて。
大丈夫だよって自分に言い聞かせながら、一日一日を大切に抱きしめて。
立ち止まってもいいから、上澄みだけを丁寧にすくって、前だけはしっかり見つめていたい。
大好きな「書く」を粛々と続けていけるように。
たぶんそれが、今の私にとって一番の日常だと思うから。
テーマ『私の日常』
2024/3/31発行「ちがう生き方」第5号掲載
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