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空っぽの瓶、私と私の狭間で|なりー

「母の私」の朝は忙しない。


朝日とともに活動を開始する息子が、私の目覚まし時計。息子の渾身ののしかかりで身体を起こし、まだ頭がぱきっとしないまま冷凍ご飯や作り置きしたおかずを温め、食卓の用意をする。その間、おむつを替え、着替えをし、「ばななぁ」と短い腕を目一杯に伸ばしてせがむ息子の手のひらに皮を剥いたバナナを載せることも忘れない。ああ、早くコーヒー飲みたいな、早く頭シャキッとさせたい。そんなことを脳内で垂れながら、数千年の眠りから復活したてのミイラさながらに重い身体を動かしていく。


食事の用意を済ませ、ベビーチェアに座らせた息子の口に目掛けてせっせと食事を運ぶ。このところ、あれが食べたいこれが食べたいと、指差しながらきちんと気持ちを伝えてくれるようになったな、一丁前に大きくなりやがって、かわいいやつめ、そのうちあっという間に言葉を覚えてお喋り上手になっちゃうんだろうな、なんて。長いまつ毛の奥の吸い込まれそうなほど魅惑的な息子の瞳と、ふりかけやら米粒やらをくっつけた小さな唇を眺めながら多幸感に浸っていると、次第に頭の麻痺も緩和してくる。かわいいなぁもう。無論、一刻も早くコーヒーが必要な状況には変わりないけど。


こんなに忙しない朝なのに、愛おしさに負けてプラレールの電源にスイッチを入れてしまい、結局家を出るのは予定よりも30分遅れ。毎朝のことなのに保育園の玄関先で不思議そうな顔をする息子にお別れのぎゅっをして、家路へ。ここからは、少しずつ「物書きの私」が顔を見せる。


空き巣に入られたかのように荒れ果てた部屋を、少しずつ立て直していく。おもちゃはおもちゃ箱へ、使った食器は食洗機へ、スイッチを入れておいた洗濯機の中身は、カラッとした空気にあたるベランダへ。程良く環境を整えたら、ようやく自分の朝食の用意。私、お待ち遠様。


食パンにスライスチーズを載せてトースターに突っ込み、ケトルでお湯を沸かす。マグカップを用意して、たっぷりのお砂糖を入れ、一緒に混ぜる牛乳を冷蔵庫から取り出し、そしていつものインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばす。


「あ、空っぽ」


全然気づかなかった。90gもあったコーヒー、全部飲み干しちゃったのね。ラベルを見ると、1杯あたりに必要な粉コーヒーの量は2g。今日が46日目だったとは。念願のコーヒーにありつけなかった若干の悔しさを感じつつ、心に広がるのは、もっとやさしい感情だった。


45日間。眠い頭をコーヒーで起こしながら駆け抜けた、「母の私」と「物書きの私」。ふたつの私の狭間で淹れる即席コーヒーは豊かな香りで私を包みこみ、砂糖の甘ったるさの奥にあるカフェインが、朝のスタートダッシュを助けてくれていた。


専業主婦だった私が、物書きを始めてから1年。マシュマロのような息子のお腹に顔を埋め、このまま死んでしまっても良いと思った日も。自分のキャパシティーを見誤って仕事に追われ、家族に向き合う余裕がなくなり、このまま壊れてしまうんじゃないかと怖くて泣いた日も。記憶にある日もない日も、欠かさずに続けてきた、日常。これまで何度、この瓶を空にしてきたんだろう。


育児も仕事も懸命に、走り続けた証。それがこの、空っぽの瓶。私、毎日お疲れ様。今日はコーヒーの代わりに紅茶にして、冴え切らない頭もそのままにしてあげよう。相変わらずお砂糖をたっぷり入れた即席ミルクティーを携えて、「母の私」から「物書きの私」へバトンが渡った。



テーマ『私の日常』

2024/3/31発行「ちがう生き方」第5号掲載

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