利き手というものがあると知ったのは、小学校に上がる少し前だった。知ったというよりも、他の人と使っている手が違うことに気がついたという表現が正しいかもしれない。
利き手を知るまでは、色鉛筆やスプーンを握る手が決まっているとは思っていなかった。歩くときに先に出す足を決めていないように、たまたまこっちの手をよく使うという感じだった気がする。
どこで利き手を自覚したのだろう? 他の子と食事をしたときか、外食や親戚の集まりで席を決めるときか、左右の概念を学校で習ったときか。
自覚した場面は覚えていないけれど、利き手を変えましょうと学校で言われたのは、よく覚えている。
あなたの利き手は、他の人の反対側です。だから、あなたは反対側の手を利き手にしてみましょう。そんな話を聞かされた。
とにかく驚いた。日曜朝の番組の登場キャラクターがキメ技を使えなくなったような気分だった。
子供の柔軟性と集中力はすごい。ふざけるなと思いつつ反対側の手で試してみたら、だんだんできるようになる。はじめはヘビやミミズのようだった字も読めるようになった。できるようになると自分でも盛り上がってきて、「特訓」と呼んで練習を続け、じきに鉛筆や箸も反対側の手で使えるようになった。
両親は、「特訓」を見ながら変な顔をしていた。学校に反対はしなかったけれど、無理に変えなくてもいいと言って、自宅では強制しなかった。変な顔というのは当時の感想で、今になって回想すれば複雑な表情というところ。子供の物覚えが早いのを喜びつつも、幼いうちから世間に慣れる練習をさせているのが不憫だったのかもしれない。
もちろんこちらは親の心など知ったこっちゃないので、両手で書いたり食べたりするのを友達に見せて持ちネタにしていた。はじめは珍しがられていたけど、当たり前になると友達も自分も飽きてくる。気がつけば、もとの利き手だけを使うようになっていた。
書道を習ったときに、筆を使う手は決まっているとも言われた。そんなものかと思って筆は利き手の反対を使った。ハサミなどの道具は、店頭で買いやすいものはマジョリティ用だけだったので、刃物は利き手で使わなくなった。
現在では多様性に配慮した道具が増えてきたので、苦労する子供も減っているかもしれない。良いことだと思う。
そんな風に暮らしてきたけれど、あることがきっかけで両手で字を書いてみたら、意外に快適だった。文字を書くのは何となく利き手のイメージだったけれど、反対側の手も違和感がない。むしろ両手の指をしっかり使うキーボードよりも書きやすく、ネタで両手書きをしていた頃の感覚に近い。
捨てたと思っていたものが戻ってきた? 実は、もともと捨てていなかったのかもしれない。舞台裏にいたもう一つの利き手が、出番を得て戻ってきた気がする。
物体なら捨てれば失われるけれど、身体で覚えたことは簡単には失われないのかもしれない。たとえ、自分では忘れたり捨てたりしたつもりでも。
このきっかけとはフリック入力のことで、今もフリックで書いている。けれど、それはまた別の物語。
テーマ『捨てたもの』
2023/9/24発行「ちがう生き方」第4号掲載
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