本を閉じた、その瞬間に「戻ってきた」と思う。戻る、というのは自分の世界に、という意味だ。
私にとっての読書は趣味というよりストレス解消法に近い。文字を追っているときだけは、自分とは別の誰かに、こことは違う世界で生きることができるから。
学生の頃までは純粋に趣味だったと思う。物語に入り込むのを楽しんでいた。笑って泣いて百面相しながら読んで、読み終わったら余韻を楽しむ。そういうものだった。
変わったのは社会人になってから。何かを楽しむ、というのはきっと余裕が必要なのだと思う。省略不可の日常生活(睡眠、食事、家事、仕事など)とは全く別の部分だから。少なくとも自分にとってはそうだった。
だから私が本を読んでいたのは「楽しむ」ためではなく「逃げる」ためだ。仕事で失敗したとき、理不尽に怒られたとき、返したい言葉を飲み込むしかなくて唇を噛むことしかできない。そういうときに本屋に寄る。平積みされているものから適当に選ぶ。家に着くまでの間、眠りにつくまでの間、ひたすらページを捲る。いわゆる「ストレス」と呼ばれるものを忘れるために。
本当は誰かに言いたかったのかもしれない。ただ泣きたかったのかもしれない。だけど、私にはそれができなかった。
だから、ひたすら主人公に自分を重ねて、悲しい場面で一緒に泣いて、楽しい場面で一緒に笑う。自分が抱えている事情とは全く別のところではあるけれど、自分が望んだままの体の反応を受け入れる。
すると読み終わった瞬間、不思議と少しだけ心が軽い。
戻ってきた、と思うと同時に「生きている」と思う。
ここは自分の生きている世界なのだと。
別の世界から戻ったからこそ実感する。本を読む前と読んだ後、取り巻く環境は何も変わらない。それでも少しだけ軽くなった心で明日も生きていける気がした。
自分がどんな状況であっても、変わらず受け入れてくれる本の世界が私は好きだ。
だからこそ、誰かにとっての「生きている」実感を与えられる物語が書けたらいい。
ひらいて、とじて、ただそのふたつの動作の間でだけ広がる世界をこれからも紡いでいきたい。
テーマ『生きてるって感じること』
2022/12/17発行「ちがう生き方」第3号掲載
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