ちょっとしたタスクを先延ばしにしてしまう。
先日も車のリコールの封筒が来たのを放っていて、ようやく修理の予約の電話を入れた。
ふしぎと、仕事の連絡を早く返すとか、スケジュールを立てることはわりとできるのに、自分にしか関わりのないちょっとした雑務ができない。
気になるくらいならすぐに片付ければいいだろう、と思われるかもしれないが、このちょっとやってしまえばすぐ終わるようなことに取り掛かるのが昔から苦手だ。
ハガキを出すとか、カバンの中身を片付けるとか、取り込んだ洗濯物を所定の位置に戻すとか、行こう行こうと思っている美容院の予約を取ることとか。
それらをいつも頭の片隅に置きながら、きょうは忙しいから明日にしよう、今週は急ぎの用があるから終わってからにしよう、とずるずると延ばしてしまうことが少なくない。
きょうは疲れているから、という言い訳も先延ばしの常套手段だ。
いまはお昼ご飯を食べたばかりだからちょっと休んで2時から始めようと昼寝をしてしまい、日が落ちていたことも数知れない。
そうやって1日だらだらと過ごした休日は、体は休まるものの、どこか頭の片隅に罪悪感がちらつく。
また先延ばしにしてしまった。
やらなきゃいけないことがあるのに、まただらだらしてしまった。
またできなかった、意志の弱い自分にがっかりする。
そして頭の片隅にはいつまでも、やらなければいけない瑣末なことがうず高く積もっている。
いまはもう、開き直って「きょうは何もしない日」宣言をする。
事前にカレンダーに休みマークを書き込み、「今度の休みは何もしない、どこにも行かない日ですよ」と夫に伝える。
そして「きょうは何もしない日」がやってきた。
前夜から眠くなるまで夜更かしをしていたので自然に目が覚めるまで眠り、昼頃に洗濯物を干す。
昼はお腹が空くまで食べず、読みたかった本を疲れるまで読みふける。
一応ごはんは炊くが、夕食はノープランだ。夫が作ってくれる日も少なくない。
「何もしない日」をすると、最低限の洗濯をしたり、お米を炊いたり、本が読めただけでもなんだか誇らしい。
ゆっくり休めてよかったね、と自分を労ってあげられる。
そもそも何もしなくても、できなくても、よかったんだ。
相変わらず、雑務はなくならないけれど、それが目に入っても前みたいに罪悪感を感じることはなくなった。
休む自分を認めることだって、長く歩くためには大切だ。
テーマ『自分の中にある罪悪感』
2022/7/1発行「ちがう生き方」第2号掲載
Comments